ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(1813年10月10日 - 1901年1月27日)は主にオペラを制作し「オペラ王」の異名を持つ。
妹との2人兄妹。父は農業以外にも小売や宿、郵便取り扱いなどを行い、当時としては珍しく読み書きもできる人物だった。
ヴェルディも父の仕事を手伝う利発な少年だったが、早くから音楽に興味を覚え、旅回りの楽団や教会のパイプオルガンを熱心に聴いた。
8歳の時、両親が中古のスピネット(小型のチェンバロ)を買い与えると、熱中して一日中これに向かった。
教会のオルガン奏者から指導を受け、たった1年程でその師範の腕前を上回ると、パイプオルガンの演奏を任されるようになった。
父の取引先だった音楽好きの商人アントーニオ・バレッツィはヴェルディの噂を聞きつけ、その才能を伸ばすよう提案。
10歳のヴェルディは下宿しながら上級学校で読み書きやラテン語、音楽学校で音楽の基礎を学んだ。
バレッツィの家にも通い、公私ともに援助を受ける一方で、彼を通じて町の音楽活動にも加わるようになった。
作曲や演奏、そして指揮などの経験を重ね、ヴェルディの評判は町に広がった。
22歳の時、音楽監督としてまじめに仕事に取り組み、パレッツィの長女マルゲリータと結婚。翌年長女が誕生する。
その1年後には長男も生まれるが、出産以降妻の体調が優れないばかりか、同じ年に長女を病で亡くしてしまう。
さらに長男も病のため1歳余りで亡くなり、ヴェルディは悲しみを胸に秘めたまま仕事の準備を進め、『オベルト』がスカラ座で上演された。
27歳の時、妻も脳炎に侵され死亡。妻子を全て失ったヴェルディの気力は萎えた。
それでも仕事はしなければならず、心にぽっかり穴が空いたまま『一日だけの王様』を仕上げたが評価は散々で、公演は中断された。
彼は打ちひしがれて閉じこもり、もう音楽から身を引こうと考えた。
ヴェルディの才能を買っていたスカラ座の支配人と街中で偶然会い、半ば強引に新しい台本を押し付けられた。
もうやる気の無いヴェルディは帰宅し台本を放り出したが、開いたページの台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」が眼に入り、再び音楽への意欲を取り戻した。
彼は完璧主義で、7ー8時間のリハーサルもよく行われた。
「作曲家ではなく詩人に従うように」と、出演者に繰り返し指示していた。
g
その後立て続けに作品を作り上げ、観客からの賞賛も受け、名声を高めていく一方で、リウマチや疲弊に苦しんだ。
過労が顕著になり、医者から休養を取るように助言され、33歳の時に完全に仕事から離れて数ヶ月の休養を取った。
度々勃発する近隣諸国の紛争に思いを馳せて作られた、祖国への愛を高らかに歌う『レニャーノの戦い』を観た観劇者たちは興奮し、「イタリア万歳」を叫び、ヴェルディを統一のシンボルとまでみなし始めた。
ヴェルディはこの頃から、人間の心を掘り下げる作品作りに取り組むようになる。
楽曲の美しさと演劇性を高度に両立させた内容の秀逸さもさることながら、時代の雰囲気にも適合した『仮面舞踏会』にも観客は熱狂した。
g
イタリアの王ヴィットーリオ・エマヌエーレ万歳「Viva Vittorio Emanuele Re D'Italia」が略され「Viva VERDI」(ヴェルディ万歳)と偶然になったことが起因し、ヴェルディは時代の寵児へと押し上げられたが、その一方で本人は ”聴衆は作品に正当な評価を向けていない” と感じ、「もうオペラは書かない」と言って次の契約を断り、以前購入していた郊外の農場へと身を引いた。
45歳の時、ソプラノ歌手だったジュゼッピーナ(当時43歳)と結婚。
g
その後も仕事の依頼があっては、思うような結果が得られず身を引き、また仕事の依頼があって作品を作るも戦争が勃発して公演が中断され、意欲を削がれ…
「ピアノの蓋を開けない」期間が5年間続いた。
しかし慈善活動には熱心で、奨学金や橋の建設に寄付をしたり、病院の建設計画にも取り組んでいた。
g
だが世間は才能ある者を放ってはおかない。そんな状態にあっても仕事の依頼が次々と舞い込んだ。
同時代に活躍した良きライバル、同志たちの多くが既に世を去ったことに落胆しているヴェルディを友人が励ましつつ、7年もの歳月をかけて『オテロ』という集大成が完成した。
各登場人物を明瞭に描き出し、彼が追求した劇と曲の切れ目ない融合は高い評価を受けた。
しかし彼は虚脱感に襲われ、次の仕事を断ってまた農場に引っ込み、慈善事業に取り組んだ。
85歳の時、2人目の妻にも(肺炎で)先立たれる。
g
その3年後、偉大な作曲家兼農家の男は息を引き取った。
g
後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれた。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では御せないイタリア人の情を表現したためと解釈される。
また、サルデーニャ王国によるリソルジメントが進む中で、彼の名前Verdiの綴りが “Vittorio Emanuele Re d’Italia” (イタリア国王 ヴィットーリオ=エヌマエーレ)の略号にもなっていたのも関係している。
ヴェルディの活動はイタリア・オペラに変革をもたらし、現代に至る最も重要な人物と評される。
1962年から1981年まで、1000リレ(リラの複数形)イタリアの紙幣に肖像が採用されていた。
参考文献:フリー百科事典『ウィキペディア』